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「家」の研究――尾張徳川家

将軍吉宗に冷や飯を食わされた御三家筆頭は幕末以降に大活躍

菊地浩之菊地浩之

2019/11/26

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将軍争いに敗れて押しつけ養子で凋落

尾張徳川家は徳川将軍家の分家「御三家」の筆頭であり、藩祖・徳川義直は家康の9男で、尾張名古屋61万9500石に封ぜられた。御三家筆頭として、将軍家の血筋が途絶えた際には将軍を継ぐ資格があったのだが、周知の通り、紀伊徳川家出身の徳川吉宗にその座を奪われてしまう。

だからというわけではないが、吉宗と将軍の座を争った6代藩主・徳川継友が死去し、実弟で兄の後を継いだ7代藩主・徳川宗春は吉宗に対する対抗姿勢を露わにした。当時、江戸では将軍・吉宗が質素倹約、規制強化を基軸とした幕政再建に取り組んでいたが、宗春は倹約主義や緊縮政策が庶民を苦しめていると批判。初めて名古屋にお国入りした際には、長キセルをくわえ、派手な衣装で白牛に乗るという奇抜な風体で城下を練り歩いた。また、城下で遊郭や芝居興行等を許可し、武士の観劇も許したため、全国各地の遊女、芸人、商人等が名古屋に集まり、江戸、京都、大坂を凌ぐ繁栄ぶりを謳歌した。

しかし、こうした放埒な行政は吉宗の怒りを買い、宗春は蟄居を命ぜられてしまう。御三家筆頭の尾張徳川家が幕府から譴責(けんせき)を受け、当主が引退に追い込まれることは前代未聞の大事件であり、尾張藩に暗い陰を落とした。

尾張藩がさらに元気をなくしたのは、度重なる将軍家からの押し付け養子である。9代・徳川宗睦(むねちか)が嗣子に恵まれず、藩祖・義直以来の血筋が絶えてしまう。宗睦はやむなく11代将軍徳川家斉(いえなり)の甥・徳川斉朝(なりとも)を養子に迎えた。以後、家斉の19男・徳川斉温(なりはる)、家斉の11男・徳川斉荘(なりたか)、家斉の甥で田安徳川家の徳川慶臧(よしつぐ)と4代にわたって養子を迎えた。

こうした変則的な人事は、尾張藩附家老・成瀬家が大名並みの待遇を受けるために、老中・水野忠邦と結託して「押し付け養子」を呑んだためだといわれている。13代・徳川慶臧がわずか14歳で死去すると、幕府は慶臧の実弟・田安徳川慶頼を尾張徳川家の養子に押し付けようと画策したが、尾張藩家臣の反発がピークに達し、断念せざるを得なかった。

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井伊直弼と対立――戊辰戦争では官軍側に

かくして、分家の美濃高須藩から徳川慶勝が迎えられた。徳川慶勝は幼少時から英邁の誉れ高く、その果断な性格がわざわいして大老・井伊直弼と衝突。「安政の大獄」で江戸藩邸下屋敷での蟄居を命ぜられた。嗣子が幼かったので、実弟の徳川茂徳(もちなが)が跡を継いだ。

徳川慶勝の兄弟はみな優秀で、俗に「高須四兄弟」と呼ばれた。残りの2人は会津松平家の養子で、京都守護職となった松平容保(かたもり)。伊勢桑名藩の養子で、京都所司代となった松平定敬(さだあき)である。なるほど、みんな大活躍である。井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、徳川慶勝の謹慎が解除されると、尾張藩内は慶勝の藩政復帰を待望する声で満ちあふれた。藩内の混乱を収拾するため、茂徳は自ら退き、慶勝が藩政に復帰した。

慶勝は第一次長州征伐の総督として出陣して長州藩を降伏させ、公武合体運動などに奔走。戊辰戦争が勃発すると、官軍支持を決断。慶勝は家臣四〇余人を東海道・中山道の大名、旗本に派遣し、官軍につくよう説得。御三家筆頭で東海の雄藩である尾張藩が官軍を支持し、さらに尾張藩による半ば強引ともいえる「勤王誘引」によって、東海道の譜代諸藩は一斉に官軍への恭順に傾いたという。慶勝の嗣子が早くに死去したため、徳川義礼(よしあきら)を婿養子に迎えたが、義礼にも男子は産まれなかった。ここで、のちに総理大臣となる加藤高明が暗躍し、越前松平家の松平春嶽(しゅんがく)の末男・徳川義親(よしちか)を婿養子に迎えることに成功した。

なぜ、加藤がここで出しゃばってくるのか。実は各藩主の末裔は、自藩出身の有力者を顧問・相談役に迎えて、家政を支援してもらっていたのである。加藤高明は尾張藩足軽の子に生まれ、東京帝国大学法科を首席で卒業して三菱財閥に入り、その後、外務省、大蔵省に転じ、外務大臣、憲政会総裁を経て、総理大臣に就任。その一方、尾張徳川家の顧問に就任していた。

加藤は尾張徳川家の財政が逼迫していることを聞き、その内情を詳しく調べ、東京で侯爵としての体面を保つために多額の出費を強いられていると結論した。加藤は田舎の城に住まう英国貴族の例を挙げ、尾張徳川家を名古屋に移住させた。そして、加藤は大名子弟の中からとりわけ元気者の義親を見出し、主家・尾張徳川家の養子に推薦したらしい。義親は松平慶永の子だけあって破天荒な行動力があり、世間を騒がせ、「最後の殿様」と呼ばれた。

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維新後は美術工芸の収集から政界のフィクサーに?

義親の積極果敢な性格は文化・芸術面で遺憾なく発揮された。国語や歴史の教科書に必ず掲載される『源氏物語絵巻』の図に「徳川美術館所蔵、徳川黎明会(れいめいかい)うんぬん」といった記述を見たことがないだろうか。その徳川美術館、徳川黎明会を作って、わが国の美術工芸品を買い集めたのが、義親なのである。当時まだ日本に美術館が少なかった時代で、超近代的な設備で国宝級の美術品を展示したことから、その快挙は日本のみならず海外でも注目された。

しかし、義親の真骨頂は美術のパトロンとしてではなく、うさんくさい政治活動にある。義親は陸軍中堅幹部が起こしたクーデター未遂事件(三月事件)の黒幕といわれ、戦後の日本社会党(現 社会民主党)の発足にはスポンサーとなったと思えば、自由民主党推薦で名古屋市長選に出馬(落選)するなど、政治の世界でも暗躍したのだ。

そして、義親の孫娘の婿養子になったのが、下総佐倉藩主・堀田家の子孫だった徳川義宣(よしのぶ)である。尾張徳川家で徳川・松平家以外からの婿養子で、堀田家の生まれであるが、血筋を辿れば、佐賀藩主・鍋島家に行き着く。婿養子になった5年後に、義宣は勤めていた東京銀行(現 三菱UFJ銀行)を退職して本格的に学術を学び直し、東京大学農学部林学科研究生、東京国立博物館研究生となった。愛知学院大学文学部講師の就任をかわきりに、青山学院大学文学部講師、上智大学美術史講師、学習院大学日本社会史講師を歴任し、学者としても活躍。『新修 徳川家康文書の研究』『徳川家康真蹟集』などの著書がある。

江戸時代中期に一番元気のなかった尾張徳川家は、幕末以降、度重なる養子戦略で、御三家で一番元気な家系へと大逆転したのである。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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